
日々生活している上で、苦しさや生きづらさ等、感じてしまうことは無いでしょうか?
僕を始め多くの皆さんも会社の同僚や周囲の目を気にしながら生きているのではないだろうか。
小さいころから徹底的に教育で刷り込まれた価値観でマインドコントロールされているんだろうと思うことが多々ある。
僕は仕事で海外へ行くことが多かったせいか、多様な意見や多様な価値観に触れることで多くの疑問を抱くことがある。
「みんな一緒にやろう」
「足並みを乱さないようにしよう」
「多数の意見が正しい」
そんな同調圧力とも言えるべきことがとっても強い世の中になっているように思う。
僕は田舎生まれの田舎育ちなので人と変わった発言をしたり、みんなと違った行動を取らないようにする傾向があった(昔の話ですよ^^)
SNSなどのネットの世界がまさにそうで、変わった発言や人と違う意見を述べようものなら「変わり者」「異物」「膿」のような扱いをされ、大勢から排除しようとされてしまう。
周りと考え方が違ったり意見が違ったりすると排除の対象とされてしまう可能性があるので、他人の顔色を気にしながら同調した意見で仲良しを演じている。
多くの人たちが窮屈な生き方をしてしまうのはどうしてだろうか?
人と同じでないとダメなのだろうか?
自分と意見が違うと変わったやつ扱いしようとするのだろうか?
そういった形も無く見えない同調圧力を作り出し、生き難くさせているものの正体とは?
Contents
常識と言う便利な言葉
つまり、人の持っている「常識」が原因です。
友達や周囲の人たちと共有している常識が、考え方や行動に大きく規制をかけ、行動や発言を制限したりしている。
時には人生も巻き込んでコントロールしているという事でしょう。
人間の心を支配している「常識」と言う便利な言葉とは一体何なんでしょうか?
その答えを話す前に一言お話ししておきたいのが、「知識」と「常識」の違いについてです。
どちらの言葉もよく使う言葉で馴染みがあると思いますが、「知識」「常識」の意味や使い方を理解していない人が実際にやたらと多いです。
まず、知識といっても、正しいものから誤った知識があります。
主観にとらわれない事実に基づいたもの、これが知識というものです。
では、常識とは何でしょう?
複数の人間がその場で共有する価値観や共鳴するルールであり、その人たちだけが共有している価値観やルールが常識というものです。
知識と言うものは変わらない事実であり、常識とはその時の環境や状況で変わってしまう不確実なものです。
ネット全盛の時代となった現在、今までの常識はことごとく変化し、多様性を求められ昔の常識は通用しなくなってきています。
自然に作られた常識もあれば人為的に作為に満ちた常識もある。テレビなどのメディアがそう。
世の中を印象操作しているメディアが自分たちにとって都合良く作為的に常識などを作り上げていると思う。
このような権力を持つ者たちの手で作り上げられた常識を、僕たちは小さいころから徹底的に頭と心に刷り込まれ教え込まれ、知らないうちにマインドコントロールされている。
今も学校による洗脳教育活動は続いたままです。
自分たちにとって都合の良い人間を作り出すための洗脳機関として学校があるといっても大袈裟ではない。
世の中や学校が望んでいる生徒とはどんな人間だろうか?
わかりやすく言えば、「規則や規律を守り勤勉で自己主張のない真面目な人間」といった感じだろうか。
大して特色のない平均点の人間が好まれるのか?
その答えは社会を見渡せばよくわかるでしょう。
戦後の日本経済を現在まで支えてきた大多数の人間は、間違いなく真面目で平凡な人たちだろう。
代表的な人たち
そう、普通の真面目なサラリーマンや労働者の人々。
会社の命令に従順に従い身を粉にして働いてくれるのは真面目なサラリーマンの人たちです。これは工場に勤めたりしている労働者も含まれます。
斬新なアイデアを考えたり自己主張の強い人間など企業は必要としていません。
会社からの命令に逆らうことなく淡々としっかり仕事をこなす人間が大勢いれば良いのです。
これだけ世界中でグローバルやら多様性やらが叫ばれている時代でも、国や一部の権力者たちの影響下で汗水流して働いているサラリーマンや労働者が日本経済の原点なんです。
その流れは今も昔も全く変わっておらず、救いはインターネットの普及に伴うあらゆる情報の共有が可能となっていることだけです。
政府の出先論客コメンテーターなどが人間教育を論じる時、「これからの時代は自由な発想で柔軟な考え方や多角的に物事を捉える力が必要だ!」などと論じていますが、正直、僕は右から左に聞いていますw
併せてお読みください→意味のない我慢をいつまでし続けるのか?人生は気付いたもん勝ち
自由にのびのびと人間教育をしているように見えても、それは学校と言う平均的人間育成の中での常識でしかない。
学校が設定している常識から外れようものならどうしてそうなんだと無理やり「型」にはめようとする。
のびのび自由にするということは学校が決めた常識内での事であり、これを大きく変えることはしないでしょう。
まさに義務教育という長期に渡る洗脳機関ということです。
一切のメリットが無いわけでは無く、伸びようとする力を無理やり抑え込んでしまうことでデメリットの方が遥かに大きすぎてどうしようもない状態だろう。
とにかく自分たちにとって都合の良い常識を指針にして我慢我慢の人間を作り出し、常識を名一杯すり込もうとするからたまったもんじゃない。
もしも自分の人生の歩み方に疑問を感じたり、その環境に生きづらさを感じたりすることがあれば良い兆しであるとも言えるのではないでしょうか。
言葉は悪いですが、「気付き」があるのかもしれません。常識という綺麗な言葉の洗脳の呪縛から解放されるきっかけになっているのかもしれません。
信じるか信じないかは自由ですが、常識とは意図的に作られたものが多く「これは常識です」と言われても、本当にそれが正しい常識とは限らないという事。
もう一つわかりやすく例えると、常識というものは、人々の能力を制限しながらまだ見ぬ将来への可能性や選択肢を奪い去ってしまうもの。と言い換えることもできる訳です。
記事の途中で洗脳するのはマスコミや国と書きましたが、マスコミや国だけでもなく周りの友人やネット情報、企業のセミナー等、色々な分野に潜んでいます。
そういう方たちからすると僕のブログも洗脳ブログになってしまいますが(笑)
周りが正しいと主張しているからそれは正しい!
みんなが同調しているからそれは変じゃない!
自分の人生における主導権を決して他人に握らせてはいけません。
目の前にある常識が本当に正しいかどうか、自分だけの主観でしっかり見つめて欲しい。
周りに流され無条件に受け入れるようなことだけはしないで欲しいです。
ギスギスした人生から解放され気持ちよく過ごせたなら本当の幸せが見えると思うんですがね^^
本日もここまでお読みくださりありがとうございました。